ハンバーガーかチーズバーガーかすら選べるのに、自分の姓が選べないのはなぜなのか

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結婚して早2年ちょっと。私は通常の生活では元の姓を名乗り、病院やお役所、カードや銀行口座の名義など、どうしようもない場合に限って夫の姓を使っている。

でも、それがとてつもなく苦痛で仕方がない。

婚姻届を出し、銀行で姓を変更する手続きの最後、目の前でこれまでの姓に二重線を引かれた瞬間、私の自尊心はガラガラと音を立てて崩れた。これまでの人生が全否定された気がした。そして帰宅してひとりぼっちの部屋でさめざめと泣いた。

上記のnoteでも書いたが、結婚するときに夫は事実婚でもいいよと言ってくれていたし、法律婚だとしても夫が姓を変えてもいいと言ってくれていた。それを盛大に阻んだのが私の家族だった。

「夫くんは長男なのに、そんな婿養子なんてこと、向こうのご両親が納得するはずない」
事実婚なんてあり得ない。もっての他。法律婚しか認めない」
「結婚できるだけいいじゃん。そこまで別姓にこだわる理由が分からない」

まあ、確かに?私の姓は珍しい部類のものでもないし、何がなんでも残さなきゃならない血族のようなものはない。(例えば徳川の末裔とか)
それを言えば、夫だってそうだ。別にごくありふれた苗字で、ごくありふれた家系だから、夫が私の姓にしたところで歴史が……!とかにはならない。
なのに、「女である」がゆえに、私が姓を変えるのが当然と考える人がいる。しかも一番身近な家族のなかにわんさかと。

一度うっかり、贈り物を夫の姓で実家に送ってしまったことがあった。それをみた叔母はニヤニヤしながら「いいわねえ〜あなたも結婚してお嫁さんになったって感じで」と言った。私は表現できないモヤモヤと気持ち悪さを感じながら「そうかなー」とお茶を濁した。

前述のnoteで私はその苦痛をこう表現した。

夫のことは好きだ。尊敬もしているし、愛情もある。
自他ともに「仲の良い夫婦」と評価できると思う。
でも。
自分のこれまでの生き方や信条、ポリシーを全否定されているような気がして苦しくて苦しくて、泣きたくなる。大袈裟と思われるかもしれないけれど、そういう人間もこの世の中にはいるのだ。

私は夫の付属物でもないし、私の名前は括弧に入れられるべきものでもないし、私のキャリアは私の“名前”で培ってきたものだ。「夫の姓さん」と呼ばれても「ダレデスカ?」となる。ましてや、「嫁に行った」つもりもない。夫の家族のことは好きだし大切に思っているが、夫の家の人間になったつもりはさらさらない。私は私でしかない。

さらに夫が戸籍の筆頭者であり、そこにぶら下がっている自分にも(選択した姓を名乗っていた人間が自動的に筆頭者になるシステムどうにかなりませんか?)、私の名前が「旧」姓扱いされ(古いってなんだよ失礼だな)、公的書類に「併記」してもカッコに入れられることも(夫の姓[私の姓]名前ってなる)のにも全然納得していない。

病院で「夫の姓さん」と言われるたびに「私の姓で呼んでください」と訂正する。

仕事は元の名前で続けているが、振り込みなどではどうしても口座名義を伝える必要があり、「こっちが元の名前で、こっちが振込用の戸籍名です」と説明をする。正直かなりめんどくさい。

大体、これまでの名前で仕事をしているけど、それってこの社会に存在する人間の仕事として法的に認められてるのか、確定申告している「夫の姓」の私が稼いでいると国には認識されていて、「これまでの姓の私」は仕事をこなす影武者?小姓?秘書?一体なんなんだ?と時々考えては頭の中がごちゃごちゃになる。とても疲れる。

「これまでの姓の私」は社会において一体存在しているのだろうか。それとも「概念」としてだけしかもはや存在しないのだろうか。その概念を人間に見せるために「夫の姓になった私」はせっせと頑張っているのだろうか。

日々、生活のあらゆるところで自分の姓と夫の姓の間を行ったり来たりしていると、何とも足場が安定しないゆらゆらと揺れる不安定な存在のように自分のことを感じる。私は一体「誰」なのだろう。

ライター仲間のえるもさんが、同じようなことをnoteで書いていて、少しほっとした。私だけじゃなかった。

制度として、旧姓併記や旧姓を通称とすることもできる。でも、あくまで「併記」だ。
通称はなおさら、身分証と名前が一致しなかったり、書類と異なる名前を使ったりすることで、手続きができないなんてこともある。
別姓にしたいなら事実婚をすればいい、という意見もあるが、現代の日本では法律婚のほうが享受できるメリットが大きい。つまり、法律婚をする夫婦のどちらかは、今まで生きてきた姓が書類から消えてしまうのだ。
それを「慣れ」とか「当たり前」とか、そんな言葉で押さえ込むのはもう時代遅れなんじゃないか。

法律婚をしてよかった、と思えることは今のところまだない。この先、どちらかが病気をしたり、年をとって相続の問題が出てきたり、子どもができたりでもすればメリットを享受できるのかもしれないけれど、現時点では特に「法律婚バンザーーーーーイ!!!!!!」みたいな気持ちになったことは一度もない。

名前を同じくしないと家族の絆が〜とか言う人に聞きたい。結婚したら名前が変わった方は自分の家族との絆が弱まりまっか?

と言うより、姓が同じ「だから」家族の絆が強くなるのではない。家族を構成するそれぞれの個人の努力によって、絆が生まれるのだし、それが強固になるのも貧弱になるのも名前云々とは関係のない話だ。何でもかんでも姓に帰着させるな、絆に失礼だぞ。

両親の姓が違うと子どもが混乱する。少なくとも、私は今後もこれまでの姓を名乗り続けるので、子ども=夫の姓、私=これまでの姓(通称)で、どのみち同じ問題は生じるし、意外とそこって大きな問題ではなかったりする。どちらかといえば、子どもを取り巻く大人たちが「あそこの家庭は夫婦で苗字が違うの何かわけありなのよ、きっと〜」みたいなことで事態をややこしくしている印象がある。

この世の中大抵のものは選べる。しかし、夫婦の姓だけは選べない。

夫婦同姓が義務付けられているのって、ふたりでハンバーガーショップに入って、「ここではお2人様同じものしか選べません。ご不満なら別のところへ行ってください」

とか

国際線で「この飛行機では、食事は魚だけのご提供となります。ご不満、食のポリシーなどでご同意いただけない場合は機体を降りていただいて結構です」

と言われているようなものだ。(もしそんなハンバーガーショップや航空会社が存在したら、顧客満足度はどうであろうか。)

せっかくなら、それぞれ別のメニューが選べたほうがいいし、ポリシーに沿った食事を提供してくれたほうが幸せになる人も増える。

ふたりで同じメニューを頬張って美味しいね、と言い合うことに幸せを感じる人もいるだろう。
それと同時に、違うメニューを頬張りたい人間もいるのだ。
そこに、対立する問題などあるだろうか。

私は、私の名前で頑張ってきた自分が愛おしい。誇りを持っている。
だから、私の名前で生きていきたい。

でも、新しい名前を名乗ることの新鮮さや、「新しい自分」になる初々しい感覚を否定するつもりもない。

どちらも大切な価値観であり、尊重されるべき生き様だから。

ハンバーガーもチーズバーガーも、チキンフィレオも、フィレオフィッシュも美味しい。ふたりで別々のものを頬張っていたって、当人たちが幸せならそれでいいじゃないか。

選べることで幸せになれる人が増えるのなら、どうかその選択肢を潰さないでほしい。社会において幸せの数は多ければ多いほうがいいのだから。