シン・エヴァをキリスト教の視点+αから振り返ってみた

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今週やっと『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観た。
本当は序破Qを全部観て、復習してから観に行きたかったのだけれどそんな時間はよもよも取れず、結局ウィキペディアであらすじをざっと追って観にいくという、本物のエヴァファンが聞いたらそれこそ十字架に張り付けにされるのでは、という何とも雑な復習と鑑賞態度になってしまった。嗚呼……

詳細な考察はたくさんあるし、私はエヴァを細部の細部までくまなく観ているわけではないので、堂々と「考察します!」とは恐れ多くてとても言えない。(いろいろ読んだ中で、個人的に刺さった考察が下記。特に深津さんの考察は興味深かった)

それでも何か語りたくなっちゃうのが”エヴァ”の凄いところなんだと思う。

私は大学がゴリッゴリのカトリック校だったのだが、聖書学の授業中に先生がいきなりエヴァを持ち出して、「この聖書の箇所がまさにエヴァのあのシーンに使われている単語ですね〜」と話し出したときはさすがに面食らった。シスターも観てるんだ、エヴァ……

そんなわけで、私が個人的に気になっている視点を挙げてみようかなと思います。

 

 

 

エヴァオイディプスの物語と読める可能性

エヴァを聖書の文脈で考察するものは多い。だってタイトルから「エヴァンゲリオン(福音)」だし、ロンギヌスの槍とかアダムと言った聖書に出てくる単語だらけだ。私もこれまではずっと聖書文脈でエヴァの物語を捉えていた。

けど、今回のシン・エヴァを観て、ふと「エヴァってオイディプスだね?」と思ったのだ。

オイディプスの物語は、古代ギリシアに書かれたもので、聖書とはまた違った文脈になる。

オイディプース - Wikipedia ja.wikipedia.org  

詳しいあらすじは省くが、「息子が自分を殺す」とお告げを受けた父親がうっかり子供を作ってしまい「ヤッベ、山に捨てよ」と家臣に託した息子がうっかり生き延びてしまい、成長したオイディプスは自分の父親だと知らずに(これまた)うっかり父親を殺し、自分の実母と知らずに母親と結婚してしまうという悲劇。

「子供を作るべきではない」と神託を受けた父は、家族の愛を知らなかったのに父親に「なってしまった」ゲンドウと重なるし、その父が子を捨て、成長した子どもが父の治めていた国を襲う怪物を倒し英雄となるくだりは、シンジが成長しエヴァに乗り使徒と闘うストーリーとリンクする。そして最も重要なことは、自分の実母と知らずに「綾波レイ」を好きになること。「アヤナミシリーズ」がシンジを好きになるようにプログラムされていることも、示唆深い気がする。

ちなみに、『オイディプス』のオチは、母親と結婚しその国の王となったオイディプスだが、不作や疫病が相次ぎその原因が「前の王を殺した穢れ」であることを告げられ、真犯人を追っていたらそれが自分であったことに気がつき、絶望したオイディプスは自分の目をえぐり追放される、というもの。

この辺りはQの終わりっぽいなと思ったり。「目をえぐる=何も見ないことでしか救われない」オイディプスの姿は、心を閉ざし、誰とも目を合わそうとしない(Qの終わりとシンの冒頭の)シンジの姿に重なる。

エスの脇腹を突いた聖ロンギヌス

ちなみに、目をえぐるで言えば、アスカの片目がロンギヌスの槍でつかれ、その後眼帯をする描写となっていますが、あれはまさに「聖ロンギヌス」だなと。

エスの脇腹を槍でついたロンギヌスは白内障を患っていたが、イエスの脇腹から滴った血が目にかかると、瞬く間に白内障が治り、それをきっかけにロンギヌスは洗礼を受け、「聖ロンギヌス」となった、らしい。

ロンギヌスは目が治ることで改心し、キリスト教者になったわけだけど、アスカはロンギヌスの槍が刺さることで半分「使徒」(キリスト教者の別称でもある)となる。

この改変も見事だなと思うのですよね。

シンジに名付けを依頼するアヤナミ初期ロット

聖書関連でいくと、第三村での生活の中で様々な言葉を覚えていく中で、シンジに「自分の名前をつけて欲しい」と依頼するアヤナミの初期ロットも外せない。

聖書において「名付け」はとても大切な概念です。「はじめに言葉(ロゴス)ありき」というように、すべての理は神の言葉(神の論理)というのがキリスト教の概念。

だから、旧約聖書の創世記において神(イエスではない方)は世界のあらゆるものに名前をつけるし、イエスも自分の弟子(使徒)に名前をつける。名付け=神の行為なのだ。

ゆえに、アヤナミ初期ロットがシンジに「名前をつけて欲しい」と言うということは、シンジが神の子イエス=福音をもたらすものとして位置付けられている証左なのだろう。

とすると、ゲンドウは主たる神なの?という疑問が生じる。

ゲンドウ=神、綾波レイ(ユイ)=聖霊、シンジ=神の子の三位一体説もあるが、個人的には何だか釈然としない。どちらかと言えば、レイは聖母マリアであって、ゲンドウのユイへの過剰な執着は(聖母)マリア崇敬の概念に繋がるような気がしている。

マリアを「祈りと神への執り成し」をもってキリスト者を助ける存在と見做すのがマリア崇敬なので、綾波レイがゲンドウとシンジの間に立つ存在、そしてシンジの母であり、すべての人類の母だと考えると、やっぱりマリアなんじゃないかなーと思ったりする。

じゃあ、ゲンドウは何なのか

めちゃめちゃ個人的にはゲンドウ=サタンなのではないかと思っている。

キリスト教神学において、サタンはかつては神に仕えるものであったが堕天使となり、地獄の長となった悪魔の概念とされている。ルシファー(ルシフェル)の名前で有名でしょうか。

サタンは旧約聖書でも新約聖書でも人間をたぶらかし、イエスを困難に陥らせようとするものとして度々登場します。ちなみに、ある一つの解釈では、サタンは「自らの意思で」神の国を離れたというものもある。ゲンドウが神の立場(世界をより良い方向へ導く立場)を自らの意思でおり、人類補完計画を進めていく姿はサタンに重なる(気がする)。

それぞれのキャラクターにいろいろな要素が混ざっているので、ゲンドウ=サタンと言い切れるわけではないものの、その要素も少なからずあるのではないかと思っている。

ちなみにサタンは、『マタイによる福音書』のなかでイエスから「サタンよ、退け。」と言われると素直に退いたとされている点も、シン・エヴァに繋がるなと思う点だ。(シンジとゲンドウの対話の末に、ゲンドウは素直に滅することとなった)

とはいえ、シンジがゲンドウに対してずっと「なんで!なんで!なんで!」と問いながらゲンドウはそれに一切答えない態度は、イエスが磔にあった際に「神よなぜ我を見捨てたのですか(エリエリレマサバクタニ)」と叫んだのに対して神は何も答えない、神は沈黙のうちに存在し、人間という地上の存在にはその声は聞こえないというキリスト教の解釈に通ずる。

他にも、じゃあ預言者ヨハネは誰なのよ問題とか気になることはある。〇〇波シリーズの「波」ってなんだろうとか。

さまざまなエピソードや解釈を複層的に取り入れ、全く新しいストーリーとして生み出しているからこそ、これだけ多様な解釈が出てくるのだろうし、エヴァの魅力はそれに尽きると思う。

個人的には、自由意志の話とか、レヴィナスの「顔」の概念と照らし合わせたら面白そうだなとか、対話の概念の話などいろいろあるけど、そのためにはもっとエヴァ自体を見直さなければならないし、文献も漁らないといけないので、今日はこの辺で。

こんなにも壮大なコンテンツを作り上げた監督、スタッフの皆さん、そしてファンの皆さんに最大限の敬意を払いたい。

さようなら、すべてのエヴァンゲリオン。ありがとう、すべてのエヴァンゲリオン