絶望感に浸る方がラクだけど、絶望している暇はない(週末日記、平日ver.)

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月曜日

祖母の確定診断が出たと妹から連絡がきた。
骨髄性白血病で余命は1ヶ月。
あまりにも短すぎる。
祖母は輸血ができないので、ひと月も持つか、あとは本人の生命力次第になる。
油断をすると涙が止まらなくなるから、無理矢理テンションを上げる。するとどうにも妙なハイテンションになってしまい、多分夫には痛々しく映っているのだろうと思う。
午後から自分の通院だった。主治医に事情を話すと、実家に帰ることを勧めてくれた。
主治医の反応を見て「ああ、やっぱりもう本当に残された時間は長くないんだ」と実感した。
薬を30日分処方してもらい、帰宅。
急いで飛行機のチケットを取り、夫にもその旨を伝えた。
夫は「行っておいで」と快く承諾してくれた。

火曜日

急に実家に帰ることを決めたので、慌てて美容室の予約をした。
万が一のこともあるから、おとなしめのオーダーをしようかと一瞬迷ったけど、そんな気弱な気持ちじゃダメだ!と思い、担当の美容師さんに「気持ちが強くなれそうな感じにしてください!!」と何とも分かりづらいオーダーをした。それだけでいい感じにしてくれる担当さんは神だと思う。
美容室が終わってもなんだか家に帰りたくなくて、久しぶりに渋谷をブラブラした。見たかったコスメとお洋服を見て、少しでも気分が上がるものと出会えたら買おうと思ってたけど、結局必需品のルースパウダーとコンシーラーだけ買って終了。
帰りがけ、スクランブルスクエアで両親へのお土産を買った。
帰宅すると、すぐに荷造り。どれくらい滞在するかも未定だから、とりあえずお気に入りの服やらアクセサリーやらは全部詰めた。電車が一両で走っているようなど田舎だから絶対にそんなに必要ないんだけど、自分の気持ちを支えるためには絶対にいる。

オイシックスで買っていたミールキットで簡単に食事を作り、夫と食べた。しばらく夫婦でご飯も食べられなくなると思うと寂しいような。

水曜日


帰りたくない!を朝から連発して夫を困らせる。
こんなに実家に帰りたくないのは初めてかもしれない。現実を見たくないのだ。
それでも、帰らなかったら帰らなかったで絶対に後悔する。
何も分からないいっぬは、どこかに出かけられると察知してテンション爆上がりしてしっぽを振っている。
空港についたらすぐにいっぬを飛行機に預けた。飛行機大嫌いないっぬはクレートから脱走しようとすごい力でガリガリしまくって、中に敷いてあるトイレシートを3秒でビリビリにした。小さい体で怪力。

空港が好きだ。なんかやけにワクワクして、ついお土産を買いすぎてしまう。祖母にプリン、祖父や叔母たちにモンブランを買い、さらに両親にも買いたくなったけど、前日にたくさん買っていたのでグッと堪える。
誰かのことを考えてのお買い物は本当に楽しくて好き。

たくさん荷物を抱えて実家に帰宅。ただしくは、実家の真隣にある、大叔母が住んでいた家に自主隔離。
家族が医療関係者なのと、祖母の病気の特性上、ウイルスや菌を持ち込むわけにはいかない。土曜日まで隔離生活のちPCR検査。

祖母はその日のうちにお土産のマンゴープリンをペロリと平らげたらしい。最高に嬉しい。

木曜日

移動の疲れなのか、ぐっすり寝t……いっぬ2匹(1匹は妹の飼っているミニチュアシュナウザー)のパワフルさはすごかった。
3時に突然2匹が大ハッスルし始め、廊下を猛ダッシュする。妹を起こしてはならない!と小声でなんとか2匹を宥め、寝床へ誘導…と思ったらミニシュナさんが構ってもらえたことが嬉しくて私の上にダイブ(死亡)
やっと大人しく寝てくれる〜と思ったら、今度は5時半に「ねえねえ遊ぼー」と起こされる。ニンゲン、マダネタイ。半分寝ながら適当にあしらっているうちに、7時になりいっぬたちの朝ごはんタイム。
やっと心も体も満足したお犬様たちと二度寝をキメる。
仕事もあるしと布団から起き出しコーヒーを飲んでいると、叔母から連絡。祖母の看病に必要なものを買ってきて欲しいとのお達し。妹とスーパー、ホームセンター、ドラッグストアをはしごし、アレコレ調達。アマゾンプライム以上のスピード配送だ。

午後からは真面目にお仕事。VCの方との初めて面談。とても緊張したけれど、新しい視点で事業へのフィードバックがもらえるのはありがたい。
ここ2〜3日は仕事も手につかなかったけど、少しは仕事に脳のリソースが割けるようになってきた。

余談

大学時代、ハイデガーの講義を受けているときだったか、「毎年見ている桜が、ある年余命宣告をされることでガラリと見え方が変わる。ただの春の風物詩だったものが、途端に大きな意味を持った『存在』として立ち昇ってくる。これこそが、ハイデガーが説いた『自己』の本質なのです」と『存在と時間』について論じていた。

人間は「終わり=死」を意識したときに初めて己の「存在自体」を自覚し、世界との関わり方を問い直し、自己をどのように完結させるべきなのか覚悟を持つ。そして、完結する自己を実現させるために、なすべきことをする。必ず訪れる「完結の瞬間」に向かって、未来に身を投じることが人間存在なのだ。そして、その終わりを意識したとき、世界はまるで違ったように私たちの目の前に現れる。

というようなことだったと思う。
(このことについて詳しく知りたい方はハイデガー存在と時間』もしくはそれにまつわる入門書などをぜひ)

私はいま確かに祖母の死を前にして、世界の見え方が180度(は言いすぎだけど100度くらいは)変わっているように思う。

今年も来年も再来年も、当たり前のようにそこにいると思っていた人が、もう今年の夏はおろか、新緑の季節にすらいないのかもしれないと思うと、なんで世界は不条理に満ちているのかと絶望しそうになる。

でも、絶望している暇はない。
今はただ、とにかく祖母を笑わせたい。喜ばせたい。たくさん美味しいものを食べてもらい、美しいものを見て、好きなものや人と触れ合い、これ以上ないくらい幸せだと思えることを全部やる。幸せで祖母を充満させて、させて「ああ、生きていて良かった」と思ってもらうまでは、絶望なんかしていられないのだ。